こんにちは!世界史周遊記です。

今回は、ブルガリア教会をめぐる東西教会の対立についてのお話です。

8世紀〜9世紀頃のヨーロッパでは、キリスト教の聖像崇拝を認めるかどうかについて、

西のローマ教会、東のギリシア正教会の間で激しい対立が起きていました。

キリスト教の東西教会が対立関係を深める中で、

新しくキリスト教に改宗した国家の教会をどちらの教会が管轄下に置くのかという議論が始まります。

その対立の渦中に巻き込まれたのが、先ほども紹介したブルガリア教会です。

ブルガリア王国は、ドナウ川の下流に位置する国家で、ビザンツ王国やフランク王国を凌ぐほどの大国になっていました。

そんな大国へのキリスト教布教に大きな影響を与えた人物がいます。

その人物こそ、今回の記事の主役と呼べる人です。

キリスト教を布教するために彼が乗り越えた困難とはいったいどのようなものだったのか?

ブルガリアに布教されたあと、どちらの協会が管轄権を握ることになったのか?

Виктор СапожниковによるPixabayからの画像

教科書には書かれない、世界史の裏側をのぞきます。

ブルガリアへキリスト教が広まったわけ

聖像禁止令が発布されて、東西教会の対立が浮き彫りになってきた9世紀ごろ、

ギリシア正教(正教会)は宣教師の活動によって東北のスラヴ人やブルガリア人に布教されていきました。

その布教活動に尽力した人物が、キュリロスという名の青年でした。

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キュリロスは高名な学者として知られていました。

863年頃、モラヴィア王国の王の要請を受けたビザンツ皇帝ミカエル3世は、キュリロスと兄のメトディオスの二人を、ギリシア正教の布教に任命しました。

彼らが選ばれた理由は、彼らの出身地テッサロニケ周辺は、スラヴ系の人々が多く住んでおり、

二人ともスラヴ語に堪能だったからでした。

モラヴィア王国では国王ロスチスラフから歓迎され、著述や翻訳を行ったり、弟子を養成したりしながらキリスト教会組織の基礎固めに努めました。

そして、867年にその任務を終えてコンスタンティノープルに戻ることとなった二人には、運命が一転

する出来事が起きます。

それは、本国で政変が起こったことによる皇帝の暗殺でした。

wendy CORNIQUETによるPixabayからの画像

政争に巻き込まれることを避けるため、ローマに向かいます。

当時、対立関係が浮き彫りになっていたローマ教会に保護を求めることになり、先行きが怪しくなることも予想されましたが、

教皇ハドリアヌス2世に、スラヴ人に対し、スラヴ語で布教し、スラヴ語を典礼に用いることの許可を受けることができました。

キュリロスは、ローマで修道士として暮らすことになりますが、間もなくその地で病死することになります。

キュリロスの意思を受け継いだ兄のメトディオスは、大司教に任命されてブルガリアの勢力圏の現在のセルビアに派遣されることになります。

しかし、東フランク王国の聖職者がそれに反発したのです。

その理由は、典礼はあくまでラテン語で行うべきで、スラヴ語の典礼は認められないというものでした。

キリスト教の聖典は、本来ラテン語で書かれていて、ラテン語圏以外の地域に布教するためには、その

語圏の翻訳が必要でした。

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スラヴ語の典礼を否定した彼らの訴えにより、メトディオスはとらえられてしまいました。

釈放された後は再びモラヴィア王国に戻るも、スラヴ語の典礼は認められることはありませんでした。

そして885年、メトディオスは無念の内に波乱の生涯に幕を閉じました。

死後、モラヴィア王国ではスラヴ語の典礼は禁止され、結局メトディオスの努力は報われませんでした。

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しかし、スラヴ語典礼は意外なところで生き残ったのです。

残されたスラヴ語典礼派はバルカンに南下してブルガリアのボリス1世に保護を求めると、

ボリス1世は、ビザンツ帝国と対抗する意図もあって彼らを保護することに。

その後、ブルガリアで古代スラヴ語によるキリスト教文化が開化することにつながります。

キュリロス兄弟が推し進めたスラヴ語典礼による布教活動は、

スラヴ語典礼がブルガリアで保護されたことにより、

ギリシア正教の信仰とキリル文字がスラヴ系の人々に広がっていくことになったのです。

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東西教会によるブルガリアの取り合い

キュリロスらの宣教師によるブルガリアのキリスト教化により、

勃発したのが、西方のローマ教会と東方のギリシア教会による管轄権の争いです。

869年に公会議がコンスタンティノープルで開催された結果、ブルガリア教会は東方教会に属し、コンスタンティノープル総主教の管轄下に入ることになりました。

事態は落ち着きを見せるかと思われましたが、その後、ビザンツ帝国はブルガリアに侵攻。

「ブルガリア人殺し」といわれる大虐殺を行って伴って征服し、

1018年には併合してしまいました。

いかがだったでしょうか。

歴史はときに残酷に思える側面があります。

個人の地道な努力も、大きな力には逆らえない。

国家同士の利害関係の狭間に生きる私たちは、何を目指して生きていけば良いのでしょうか。

そんなとき、キュリロスは「自分の信じた道を進め」

と私たちに訴えかけてくれているのではないでしょうか。

投稿者 ともの世界史

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