こんにちは!世界史周遊記です。

今回は、聖像崇拝問題についてのお話です。

「聖像崇拝」という言葉をご存知でしょうか?

宗教の世界でよく使われる言葉の一つで、

たとえばキリスト教のイエス・キリストや聖母マリアが描かれた絵画や彫刻が「聖像」と言われます。

私たちは、心が辛いとき、何かに寄りかかりたい時、

神様の姿をした人間の絵画や彫刻の前で手を合わせ、

祈りを捧げ、心の安定を得ることができます。

しかし、世界史上では、その「聖像」の存在を否定し、

「聖像」に向かって手を合わせることを禁止する法律を出した皇帝がいるんです。

CouleurによるPixabayからの画像

いったいなぜ、人々のよりどころであった「聖像崇拝」を禁止してしまったのか?

「聖像禁止令」が公布されてから、どのような影響が出てしまったのか?

教科書には書かれていない世界史の裏側を深掘ります。

聖像禁止令の発布

726年、ビザンツ帝国の皇帝レオン3世(レオ3世)は、

教会において聖像を崇拝することを禁止し、

それを破壊することを命じる「聖像禁止令」を発布しました。

それによって、各地ではイコノクラスムと言われる、聖像破壊運動が始まりました。

Steve BuissinneによるPixabayからの画像

キリスト教の信仰のためにつくられた、イエスやマリア、

その他の聖人の像、イコンと呼ばれる画像の多くが、聖像破壊運動によって破壊されていきました。

このような、キリスト教信仰の根底を揺るがす暴徒化に対して、各地で反発が起きます。

たとえば、ローマ教会の反発です。

WengenによるPixabayからの画像

ローマ=カトリック教会では、ゲルマン人への布教のため、聖画像を用いていました。

なので、レオン3世が出した聖像禁止令に対して激しく反発し、

聖像破壊者を破門にする対抗策をとります。

また、ビザンツ帝国・ランゴバルド王国に圧力を加えられたローマ教皇は、

近国のフランク王国に新たな保護を期待し、739年、

フランク王国にローマ教会との提携を申し込みます。

そしてその後、カール=マルテルの子ピピンがカロリング朝を立てるときにローマ教皇の承認を求め、

その見返りにランゴバルド王国から奪ったラヴェンナを教皇に寄進したことから関係が強まり、

ついに800年のカールの戴冠に至ります。

元々、ビザンツ帝国の息がかかっていたランゴバルト王国から

軍事的支援を受けていたフランク王国でしたが、その後関係が悪化し、

ピピンはローマ教会と近づくことを決めました。

聖像禁止令の背景

聖像禁止令の発布により、ローマ教会からの猛反発を得たレオン3世。

レオン3世が聖像禁止令を出した直接の理由は、

はっきりとわかっていないと言われていますが、いくつかの仮説は立っているようです。

たとえば、レオン3世の出身地域の信仰方法。

ビザンツ皇帝レオン3世はシリアの出身で、

もともと聖画像を崇敬(崇拝ではない)する習慣がなかったと言われています。

当時のビザンツ帝国には、シリアや小アジアの教会の主教たちがたくさん存在しており、

聖画像への反発に動かされたという面があったのではないかと考えられています。

次に、イスラームの侵入です。

8世紀頃のビザンツ帝国では、イスラームの攻勢を受けていました。

イスラーム教の特徴として、

徹底した偶像崇拝の否定というものがあります。

厳密にいうと、キリスト教も偶像崇拝を禁止しているのですが、

「聖なるものの代わり」として崇敬する対象として聖像を作り、

人々はそれに向かって祈りを捧げていました。

しかし、当時その姿を見たイスラーム教徒側から、嘲笑されるような状況が生まれていたそうです。

そのため、ビザンツ帝国内の東方教会の聖職者の中で、

聖像を認めるか否定するかという「聖像崇拝論争」が起こったと言われています。

その問題に決着をつける形で、726年に聖像禁止令が出されると、

各地で聖像破壊運動(イコノクラスム)によってイエスやマリアの像が壊されるようになり、

それは西方教会にも及んでいきました。

また、最も有力とされている理由があります。

それが、教会や修道院の所有地没収です。

Helmut H. KroissによるPixabayからの画像

当時、ビザンツ帝国はイスラーム軍の侵攻を受けて財政が苦しく、

兵士が不足していました。

そこでビザンツ皇帝レオン3世は、

教会・修道院から土地と領民を取り上げようと考え、

聖像禁止令を出し、それに従わなければ土地・領民を没収しようと考えました。

当時、ビザンツ帝国内の教会と修道院の土地は課税の対象ではなく、

国王はその地域の住民を兵士とすることも出来ませんでした。

そのような背景から、ビザンツ皇帝レオン3世は、

聖像禁止令の発布に踏み切ったのです。

東西教会対立のはじまり

つまり、この法令は教会側に拒否されることを想定して出し、

拒否した教会の土地を奪うという狙いがあったのです。

しかし、当初の狙いを大きく上回り、

この聖像禁止令は全キリスト教世界に大きな動揺と混乱をもたらすことになります。

PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像

いかがだったでしょうか。

東西対立の根本の原因は、自国防衛のためにとったたった一つの法律だったんですね。

東西教会の対立につながっていくなんて、当時のレオン3世も想像してなかったのではないでしょうか。

ちなみに、のちに聖像破壊運動は収束していきました。

聖像破壊運動を促進したレオン3世の子コンスタンティノス5世は後世において、一番評判の悪い皇帝としてコプロニュモスというあだ名をつけられます。

コプロスというのは、ギリシア語で「糞」という意味だそうです。

投稿者 ともの世界史

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