こんにちは。世界史周遊記です。

あなたの周りに、「この人、話噛み合わないなぁ〜」と思う人はいますか?

僕はいます。

僕はそういうとき、とりあえず自分が折れます。

そのあとは正直相手の話は聞いてません。笑

それでいいよ〜って感じで流しちゃいます。

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自分の意思が固いときはちゃんと話しますが、話し合う気がない人ってたまにいますよね。

今回は、世界史に出てくる、そんな話し合う気がない人たちのお話です。

世界史ではよく隣の民族が領土を拡大してくるので、自分たちの身を守るために隣国で軍事同盟を組むことがあります。

11世紀ごろのヨーロッパは、まさにその危機に置かれていました。

当時、軍事同盟を組もうとしていた人たちが、ローマ教会のレオ9世とビザンツ皇帝のコンスタンティヌス9世です。

当時は、東西教会が対立関係にあったため、共通の敵を得た東西教会は、「力を合わせて自分たちの身を守ろう!」という感じに、

協力して他民族の侵攻を食い止めることができれば、対立の解消も実現していたことでしょう。

しかし、その軍事同盟に「待った」をかけた人物がいて、これをきっかけに話がややこしくなっていきます。

横槍を入れてくる人っていますよね。今回はそんな人たちのお話です。

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ノルマン人の侵攻

東西教会の共通の敵。それは、ノルマン人です。

ノルマン人は、スカンディナヴィア半島やユトランド半島(デンマーク)で、狩猟や漁労に従事し、造船や航海術にたけた民族です。

8世紀ごろからノルマン人の人口は増加し、9世紀になるとさかんに海上に進出して海賊を兼ねながら交易に従事するようになっていきます。

そんなノルマン人が9世紀以降、南イタリアの地に勢力を伸ばし始めます。

11世紀の南イタリアはかなり乱れていました。

例えばイスラーム勢力が、イタリア半島南部のナポリ公国、サレルノ侯国、アマルフィ侯国などの都市国家、半島南端のビザンツ帝国領、シチリア島に侵攻を繰り返し、

神聖ローマ帝国が、全イタリアの統治権を主張して進出を図り、

ローマ教皇が、世俗の権力と同じような権力を南イタリアでも行使しようと兵士を送り、

ヴェネツィアなどの北イタリア都市共和国が、商業圏拡大だけでなく、自身の領土拡大をもくろんでいました。

それぞれの野心が丸出しの、領土争奪戦を繰り広げていたのです。

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そんな、群雄割拠していた11世紀の初め、サレルノ侯国はイスラーム軍(サラセン軍)の攻撃に苦しんでいたところ、

たまたま聖地巡礼の途中に南イタリアを訪れたていたノルマンディの騎士たちを雇ったところ、その働きでイスラーム軍を撃退することに成功したのです。

それをきっかけに、南イタリアの諸都市は相次いでノルマン人を傭兵として招くことになっていきます。

ノルマン人にとっては、棚からぼた餅。

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本国ノルマンディでは領地不足から多くのノルマン騎士が新天地を求めていたので、次々と南イタリアに移住していきました。

ノルマン人侵攻に対する東西教会の対応

ここから本題です。

ノルマンが迫る中、南イタリアのビザンツ総督だったアルギュロスは

ローマ教皇レオ9世とビザンツ皇帝コンスタンティヌス9世との軍事同盟を結ばせようと試みます。

しかし、当のビザンツの総主教ミカエル=ケルラリオスは、

「アルギュロスがランゴバルド人でギリシア典礼に熱心でない」という理由でこれに反対したのです。

軍事同盟が不締結に終わったことから、

ビザンツ帝国軍とローマ教会軍はバラバラにノルマン軍と戦うことに。。。

1054年3月、ローマ教皇レオ9世は、コンスタンティノープル側との交渉役に枢機卿フンベルトゥスを派遣した。

しかし、この男がまたしても曲者でした。

フンベルトゥスは、ケラリオスに負けず劣らず、大のギリシア嫌いだったのです。

妥協を知らない二人の交渉がうまく行くはずはなかった。

TumisuによるPixabayからの画像

そして、1054年7月16日、ローマ教皇の代理人フンベルトゥスは、

コンスタンティノープル総大司教ミカエル=ケルラリオスとその一門に対し、破門を宣告。

それをうけた相手側も、フンベルトゥスを破門にします。

いかがだったでしょうか。

共通の敵を前にしても、お互いの信念を曲げることはできなかったようです。

投稿者 ともの世界史

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