こんにちは。世界史周遊記です。
オットー1世という名前、一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
オットー1世は、10世紀に活躍したドイツ王国の皇帝です。
「オットー1世苦労人」という語呂合わせで
覚えている人も多いのではないでしょうか。
962年、このオットー1世に帝冠を授けた教皇が、
本日の主役ヨハネス12世です。
ヨハネス12世は、世界史の教科書には登場してこないレアキャラです。
(山川の用語集には載っているそうですが、試験には絶対でないので覚える人はいません。笑)
そんなヨハネス12世。
実は、めちゃくちゃ評判の悪い皇帝として知られていて、1964年に書かれた堀米庸三『正統と異端』(中公文庫)にはヨハネス12世についてこう書かれています。
オットー大帝を戴冠し、ついで皇帝を裏切ることによって追放され、最後には姦通した妻の夫に撲り殺されるという、法王座における稀代の無頼漢、ヨハネス12世の後には、彼に比較されうる悪徳の法王はもうみられない。
激しい言われようですね笑笑
そんなに悪いことしたんかって思いますけど、
調べてみたら「やはり君もか」と口をついていました。
10世紀ごろといえば、
東西キリスト教会が対立関係にあったかなりナイーブでセンシティブな時代。
そんな時代背景は露知らず、
教皇の権威を落としに落としまくったヨハネス12世の治世を一緒に振り返っていきましょう。
オットーの戴冠
962年、ザクセン朝ドイツ王(イタリア王も兼ねた)であるオットー1世は、
ローマのサン=ピエトロ大聖堂において、ローマ教皇ヨハネス12世から、
ローマ帝国皇帝の冠を授けられました。
このオットーの戴冠は、ドイツ王国・イタリア王国の国王であるオットーが、
ローマ皇帝権を獲得したことによって、
ドイツとイタリアを支配する「神聖ローマ帝国」が成立したことを意味しています。
実際に神聖ローマ帝国という名称が定着するのは13世紀からなのですが、
中世ヨーロッパの歴史では重要な出来事の一つでした。
オットーは苦労人(「962年=苦労人」の語呂合わせで覚えていました)だったかどうかは定かではないですが、
これをきっかけに「オットー大帝」といわれるようになります。
オットーの戴冠の背景
オットー1世に西ローマ帝国皇帝の冠を授けたローマ教皇のヨハネス12世。
受験世界史では全く覚える必要もないし、
用語集に「オットーに帝冠を授けた教皇」という感じでちょっとしか出てきません。
そんなヨハネス12世。
歴代のローマ教皇の中でもずば抜けて教皇とは言い難い人物として、
教皇の権威をことごとく落としていきました。
彼は、無類の女好きだったのです。
「やはり君もか。。。」
世界史に登場する名だたる皇帝。
国家は栄枯盛衰を繰り返し、
健全な新陳代謝の元に新しい新鮮な空気を入れ替えるように、
数多くの皇帝が失墜と興隆を積み重ねました。
その失墜の背景に必ずと言っていいほど存在しているのが、
「女性関係の失敗」です。(はしたない)
例に漏れずヨハネス12世も、数多くのスキャンダルが報告され、
自身の宮殿に女性を連れ込むプレイボーイだったのです。
しかも、教皇ですよ!?
まがいなりにもローマ教会の面目があるにも関わらず、キリスト教の教義よりも禁断の果実に個人的関心があったようです。
それでも教皇に対する評価は落ちることはなかったのですが、
政治情勢はきわめて不安定になりました。
そこで登場するのが、オットー1世です。
ヨハネス12世は西ローマ帝国の帝冠を引き渡すことを条件に、
オットー1世の助けを求めました。
その求めに応じてオットーは北イタリアの秩序を素早く取り戻し、
962年2月2日、その返礼として、西ローマ帝国皇帝の冠を授けられました。
新皇帝オットー1世はよろこんでイタリアの大部分を教皇領とすることを認め、
イタリア王を攻撃するためローマを出ました。
ここでヨハネス12世はまたしてもやらかします。
オットー1世の留守中、ヨハネス12世がイタリア王の息子と陰謀をめぐらしているという情報が
オットー1世に届きます。
オットー1世は当然のように激怒。
彼はヨハネス12世を廃位し、レオ8世を新教皇に任命することに。
ローマではヨハネス支持派が暴動を起こし、一時教皇位に返り咲いたが、964年、27歳で脳卒中で倒れて死んだ。
ローマでは、「女と密通中に急死したのは頭を悪魔に一撃されたからだ」といううわさが立ち、
最期までよく思われてなかった人物だったようです。
東西教会の危機
ヨハネス12世の治世を見て分かるように、この時代はローマ教皇の権威など全く感じられない、
堕落した時代と言われています。
その反面、コンスタンティノープル総主教の座に着いた聖職者には、
極めて普通な人物が多く、少しづつ、力を落としていきました。
このような東西教会が危機にある中、キリスト教世界に新たな脅威が現れます。
それは9世紀ころからヨーロッパ各地を侵攻し始めたノルマン人です。
11世紀中ごろに、シチリアから南イタリアに進出し、ビザンツ帝国の領土を次々と奪っていきました。
これは東西の教会にとって共通の脅威であるノルマン人。
東西教会は、このノルマン人討伐に向けて、対立関係がある中、教義を進めることになるのです。
いかがだったでしょうか。
いつの時代も、大きな力が崩れる理由は変わらないみたいですね。