こんにちは!世界史周遊記です。
今回は、キリスト教が世界史上で受けてきた迫害についてのお話です。
「キリスト教」と聞いたら、どんなイメージがありますか?
「世界で一番信仰者が多い」
「めっちゃ宗派が分かれてる」
「旧約聖書と新約聖書の違いはわからん」
などなど、いろいろあると思います。
実は、キリスト教は世界に広く知れ渡るまでは今で言う「新興宗教」のような立ち位置で非難を受けたり、忌み嫌われ、避けられるような存在だったのです。
今回は、今ではまったく考えられないようなことが起きていたローマ帝国での2つの大迫害について紹介します。
ネロの迫害
1世紀中頃にローマ帝国皇帝だったネロ。ネロはキリスト教の弾圧をはじめて行った人物と言われています。
64年、ローマの都市全体を覆い尽くす大火災が発生します。
原因不明の大事件にローマ国内は大混乱。
事態を収拾するため、皇帝ネロが打ち出した策が、「キリスト教徒の放火犯でっちあげ」でした。
当時、民衆の間からは、「ネロが新しい都市計画のためにローマに火を放った」という噂が流れていました。
その頃から、ネロの皇帝らしからぬ目にあまる行動に、民衆の信頼は底をついていたようです。
今回も、焼け野原と化したローマの広場に、黄金宮殿を建設しました。
民衆のネロに対する信頼はほぼゼロの状態で、そのような噂がたっても仕方がないように思えます。
ネロはこのローマの大火で起きたそのような噂を打ち消すため、キリスト教徒を放火犯に仕立て上げ、迫害を行うことにしたのです。
たとえば、捕らえたキリスト教徒を簡単な裁判で死刑に決め、猛獣の餌食にしたり、十字架にかけたり、松明代わりに燃やしたりしました。
またこのとき、キリスト教の最高指導者として捕らえられたペテロや、ローマで盛んにキリスト教の布教を進めたパウロもこのときローマで殉教したと言われています。
ローマ市民は、あまりにも理不尽なキリスト教徒への迫害を目の当たりにし、皇帝ネロに対する不信感を一層強めたと言われています。
ネロはどんな人物だった?
はじめの5年間は、真面目に政治をしていたようですが、次第に狂気に満ちていきます。
例えば、女性関係。
はっきり言って、最悪でした。
ネロは複数の女性と愛人関係を持ち、しまいにはなんと、自分の母親アグリッピナとも愛人関係になります。
そんな狂気に満ちたネロの人生を、こちらのブログにまとめました。お時間があるときに読んでいただけるといいと思います。
ディオクレティアヌスの迫害
ディオクレティアヌス帝は最後で最大のキリスト教迫害を行ったローマ皇帝として知られています。
303年の出来事でした。
ディオクレティアヌス帝は、自らをユピテル神になぞらえ、神としての皇帝崇拝と、伝統的なローマの神々への祭儀への参加をキリスト教徒に強要しました。
そして、それらを拒否したキリスト教徒に対する最後の大弾圧を行ったのです。
ディオクレティアヌスのキリスト教迫害は、かなり残虐的で想像を絶するものでした。
一例をあげると、キリスト教徒を捕らえた兵士たちは、キリスト教徒を円形闘技場に引き出し、ライオンに食わせる公開処刑を行いました。
また、キリスト教徒に精神的なダメージを与える迫害も行いました。
たとえば、そのころから作り始められていた使徒たちの手紙を集めた聖書の原型となる書物を焼却したり、教会の財産を没収したりしました。
こういった行動の背景には、キリスト教徒にとって信仰の拠り所だったものや場所を無くすという心理的なダメージを与える目的がありました。
ディオクレティアヌスはどんな人物だった?
ディオクレティアヌス帝は、厳格な皇帝崇拝と専制政治を行いました。
しかし、ローマ国内の政治や経済を安定させるという意味ではかなりの効果があったと言われています。
また、当時のローマの政治体制から考えても、専制君主政をとったことでその後のローマ帝国が安定したとも考えられます。
そんなカリスマ的な政治能力を発揮したディオクレティアヌスは、実は、とても貧しい家庭で生まれ、並々ならぬ努力の末、ローマ皇帝にまで上りつめるのです。
そんなディオクレティアヌス帝の人生をまとめたブログはこちらから読むことができます。こちらもお時間が許すときにご一緒にお読みください。
いかがだったでしょうか。
キリスト教が迫害されていた背景には、当時の皇帝が関係していたんですね。
迫害の歴史は、消えませんが、キリスト教の信念が広がった今も、迫害されることのない世界であってほしいです。