こんにちは!世界史周遊記です。

今日は、最後にして最大のキリスト教の大迫害を行ったディオクレティアヌス帝のお話です。

ディオクレティアヌス帝は、ローマ帝国後期に就任した皇帝です。

当時のローマ帝国は、軍人が力を持つ政治体制で、完全に腐敗しきっていました。

そんな堕落したローマ帝国を立て直したのが、ディオクレティアヌス帝と言われています。

しかし、そんな功績を残したディオクレティアヌス帝は、最後にして最大のキリスト教徒の大迫害を行った皇帝として広く知られています。

腐敗したローマ帝国を立て直したディオクレティアヌス帝は、いったいなぜキリスト教徒を迫害したのでしょうか。

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世界史の教科書には載ってない裏側にスポットライトを当てていきます。

奴隷出身のディオクレティアヌスの治世

ディオクレティアヌス帝の治世は、歴代皇帝の誰よりも見事だったと言われています。

しかし、彼の生まれは誰よりも貧しく、厳しい状況でした。

彼は奴隷州であったダルマティアという現在のクロアチアに位置する街で生まれました。

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ディオクレティアヌスの両親は、元老院議員アヌリアス家に仕えた奴隷であり、奴隷の子どもとして幼少期を過ごしました。

しかし、父の代になってようやく自由権を得ることになります。父親は、まもなく同様条件の人間がよく就く書記職にありついたと言われています。

ディオクレティアヌスは、成人してから軍人になりました。

めきめきと力をつけていったディオクレティアヌスは、軍人としての才能を開花させ、執政官、親衛隊指揮官ととんとん拍子で政治の世界を駆け上がっていくことになります。

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ディオクレティアヌス帝は皇帝になると、都を腐敗したローマから小アジアのニコメディアに移しました。

そして、帝国を二つに分け、それぞれに正帝、副帝の4人をおく「四帝分治制(テトラルキア)」を始めました。

しかし、四帝分治とは言いつつ、政治の決定権や裁決権はディオクレティアヌス帝が握っていて、他のの皇帝はその代理として統治を分担するだけであるので、事実上の独裁政治でした。

最後で最大のキリスト教大迫害

ディオクレティアヌス帝は最後で最大のキリスト教迫害を行ったローマ皇帝として知られています。

303年の出来事でした。

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ディオクレティアヌス帝は、自らをユピテル神になぞらえ、神としての皇帝崇拝と、伝統的なローマの神々への祭儀への参加をキリスト教徒に強要しました。

そして、それらを拒否したキリスト教徒に対する最後の大弾圧を行ったのです。

ディオクレティアヌスのキリスト教迫害は、かなり残虐的で想像を絶するものでした。

一例をあげると、キリスト教徒を捕らえた兵士たちは、キリスト教徒を円形闘技場に引き出し、ライオンに食わせる公開処刑を行いました。

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また、キリスト教徒に精神的なダメージを与える迫害も行いました。

たとえば、そのころから作り始められていた使徒たちの手紙を集めた聖書の原型となる書物を焼却したり、教会の財産を没収したりしました。

こういった行動の背景には、キリスト教徒にとって信仰の拠り所だったものや場所を無くすという心理的なダメージを与える目的がありました。

これほどまでに強い皇帝崇拝、独裁政治をしたディオクレティアヌスの専制君主政。

しかし、ローマ国内の政治や経済を安定させるという意味ではかなりの効果があったと言われています。

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たとえば、政府の官僚制度。ローマ全国を、いくつかの地域に分割し、地域ごとに統治する組織体制を作りました。

他にも、税金の徴収方法を増やし、きちんと納税されているかどうかを調べるために徴税用の記録台帳を取り入れました。

それぞれの地域で安定した政治運営と税金確保が実現できた背景には、ディオクレティアヌスが行った、ワンマン専制君主政治があったのです。

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いかがだったでしょうか?

国内を治めるための政治体制は、さまざまな種類がありますが、危機的状況から回復を目指すためには、トップダウン的なワンマン政治が効果を発揮することが多いようです。

ディオクレティアヌス帝が行ったキリスト教徒への大迫害は、その副産物とも言うことができますが、無実のキリスト教徒が理不尽な死を余儀なくされた事実は歴史から消すことはできません。

カリスマ政治家によって回復したローマ帝国と引き換えに発生した、無実の犠牲者。この歴史が語り継ぐメッセージは、「天才的な政治手法も、使い方を気をつけろ」ということかもしれません。

投稿者 ともの世界史

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