こんにちは!世界史周遊記です。

今日は、キリスト教徒の迫害を世界で初めて行った皇帝ネロのお話です。

1世紀中頃のローマ皇帝であるネロは、「暴君ネロ」という名前で知られています。

キリスト教徒の大迫害を実施するなど、残虐な政治を行っていたネロは、なぜ、そのような政治を行うようになってしまったのでしょうか。

実は、優秀な政治運営を行っていたネロがなぜ、「暴君ネロ」と言われ、市井の支持を失うまでになってしまったのか。

教科書には載ってない裏側を紹介いたします。

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ローマの大火

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64年7月、ローマの都市全体を襲う大火事が発生しました。

この大火の原因ははっきりとしていません。

しかし、民衆の間では、皇帝ネロが企てた自作自演の事件なのではないかと噂が立つようになりました。

その理由として、大火が消滅したあとのネロの不審な行動があげられます。

ネロは、大火が静まったあとの焼け野原に個人的な趣味で「黄金宮殿」を建設しました。

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前庭には巨大なネロの立像を建て、海や野山のモチーフにした庭園には動物を放し飼いにし、部屋には金箔が張り詰められ、海水と硫黄の混じった温泉を引きました。

ローマの都市が焼け野原と化したあとに平気で黄金宮殿を建てる皇帝を見て、ローマ市民は不信感を抱かずにはいられません。

また、ネロは「新しい都市計画のためにローマに火を放ったのではないか」という噂も民衆の間で立つようになりました。

ネロのキリスト教迫害

ネロはこのローマの大火で起きた噂を打ち消すため、キリスト教徒を放火犯に仕立て上げ、迫害を行いました。

ネロは捕らえたキリスト教徒を簡単な裁判で死刑に決め、猛獣の餌食にしたり、十字架にかけたり、松明代わりに燃やしたりしました。

ローマの大火でキリスト教徒を迫害したネロの残虐さは、タキトゥスが残した『年代記』に以下のように記されています。

民衆は「ネロが大火を命じた」と信じて疑わなかった。そこでネロは、この風評をもみけそうとして、身代わりの被告をこしらえ、これに大変手のこんだ罰を加える。それは、日頃から忌まわしい行為で世人から恨み憎まれ、「クリストゥス信奉者」と呼ばれていた者たちである。そこでまず、信仰を告白していた者が審問され、ついでその者らの情報に基づき、実におびただしい人が、放火の罪というよりむしろ人類敵視の罪と結びつけられたのである。そこでまず、信仰を告白していた者が審問され、ついでその者らの情報に基づき、実におびただしい人が、放火の罪というよりむしろ人類敵視の罪と結びつけられたのである。彼らは殺されるとき、なぶりものにされた。すなわち、野獣の毛皮をかぶされ、犬に噛み裂かれて倒れる。(あるいは十字架に縛り付けられ、あるいは燃えやすく仕組まれ、)そして日が落ちてから夜の灯火代わりに燃やされたのである。ネロはこの見世物のため、カエサル家の庭園を提供し、そのうえ、戦車競技まで催して、その間中、戦車馭者のよそおいで民衆のあいだを歩きまわったり、自分でも戦車を走らせたりした。

https://www.y-history.net/appendix/wh0103-075.html

またこのとき、キリスト教の最高指導者として捕らえられたペテロや、ローマで盛んにキリスト教の布教を進めたパウロもこのときローマで殉教したと言われています。

ローマ市民は、あまりにも理不尽なキリスト教徒への迫害を目の当たりにし、皇帝ネロに対する不信感を一層強めました。

狂気じみた皇帝ネロの人生

衰弱したローマの街に私的な黄金宮殿を建設し、ローマの大火の犯人をキリスト教徒になすりつけ、理不尽な迫害を行った皇帝ネロ。

このような人物が皇帝をやっていたとは信じられませんよね。彼はいったいなぜ、そのような狂気じみた行動をとるようになったのでしょうか。

彼の政治人生を振り返りながら、見ていきましょう。

彼が政治をはじめた最初の5年間は、師匠のストア哲学者セネカの補佐もあって善政をしいていました。

しかし、次第に狂気を発し、乱行が目立つようになります。

例えば、女性関係。

はっきり言って、最悪でした。

複数の女性と愛人関係を持っていたネロは、なんと自分の母親アグリッピナとも愛人関係になります。

数多くの不倫関係を持つと起きるのが、嫉妬や裏切りです。

多くのトラブルに行き詰まったネロは、母親のアグリッピナの暗殺を企てますが、結局失敗に終わってしまいます。

話はこれだけにとどまらず、ナポリでは連日リサイタルを開き、自ら歌手となって歌い明かしました。

ローマ市民が「パンと見せ物」を要求すると国の財産を投げ打ってカーニバルを開催。

毎晩らんちき騒ぎが繰り広げられました。

また、ネロの興味は男性に移り、ピタゴラスという奴隷と正式な手続きを踏んで結婚までしました。

ローマの大火が起こったのは、ちょうどこの頃。

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新しい都市計画を思いついたネロが自らに火をつけたという噂を打ち消すため、キリスト教徒を放火犯にしあげて大迫害を行いました。

また、陰謀の疑いがあるとしてその師であったセネカを捕らえ死に至らしめた。

このようなローマ皇帝らしからぬ行動を繰り返したネロは、完全に皇帝としての人望を無くしました。

元老院は皇帝ネロの廃位を決定。追いつめられたネロは68年、自殺しました。

いかがだったでしょうか?

女性関係によってその後の人生を棒に振った政治家は世界史に山ほど出てきますが、皇帝ネロのそのうちの1人でした。

キリスト教の迫害を行った皇帝ネロ。

彼の身勝手な行動は、のちの時代にも排他主義的な思想を残すことになりました。

そのような危険な思想は、世界史では何度も非難され、消滅しています。

現在起きている戦争も、世界史の視点から見てみると面白いかもしれませんね。

投稿者 ともの世界史

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