こんにちは!世界史周遊記です。
今回は、キリスト教を公認したことで知られる、コンスタンティヌス帝についてまとめました。
キリスト教といえば、宗派がたくさんありますよね。
めちゃくちゃあり過ぎて、把握しきれないくらいありますが、僕個人としては、プロテスタントの思想は共感できる部分が多いです。
今回は、キリスト教が始めて国家に認められ、正統な宗教として成り立つきっかけを作った偉大な人物についてまとめました。
四分統治
時は1世紀後半、当時のローマ帝国を治めていたのは、皇帝ディオクレティアヌス帝でした。
ディオクレティアヌス帝は、ローマを4つに分割して、国を治めるという「四分統治」という統治体制をとっていました。
高校の世界史で必ず出てくる単語でもあり、覚えている方も多いのではないでしょうか。
その時、4つに分割された中の西のガリアという地域の副帝を務めた人物が、コンスタンティウスです。
ちなみに、コンスタンティウスは、コンスタンティヌスの父親です。
(一文字違いというところがなんともややこしいですよね。僕は高校生のころ、彼の名前を覚えるのにとても苦労しました。。。)
その後、四分統治制度は4つの地域で覇権争いが始まることになります。
国内を治める政治的な安定感や軍事的な統率力といった国家としての根本的な機能を失い、四分統治は失敗に終わってしまいます。
コンスタンティヌスの生い立ち
そんな、四分統治時代の西地域の副帝だったコンスタンティウスの元に生まれたのが、のちのローマ皇帝となるコンスタンティヌスです。
コンスタンティヌスは、父のコンスタンティウスが統治するガリア地域で幼いころから過ごし、父と同じく軍人としてガリア地域で力をつけていきました。
306年、父のコンスタンティウスが亡くなります。
そして当然のように後続争いが始まります。
コンスタンティヌスは配下の軍隊からの支持が厚かったと言われています。
しかし、他にも後続の皇帝に立候補した三人が現れ、激しい内戦を繰り広げることになってしまいます。
熾烈な後続争いの末、コンスタンティヌスは、312年にミルウィヌス橋の戦いで勝利を納めます。
その後、コンスタンティヌスはローマに入城し、元老院から西の正帝として承認されることになるのです。
コンスタンティヌスの勝利、西の正帝として承認を受けたそのときに建てられたのが、あの有名なローマのコンスタンティヌス帝の凱旋門です。
キリスト教の公認
コンスタンティヌス帝は、キリスト教徒でした。
幼いころ、父の影響で入信していたコンスタンティヌスでしたが、最初は敬虔な信者ではありませんでした。
しかし、312年、西の正帝の地位をめぐってマクセンティウスと戦っていたとき、
十字架をかかげて戦った結果、みごと勝利を納めたのです。
そのような奇跡的な体験を通して、コンスタンティヌスはキリスト教を認めるようになったと言われています。
そして、翌年313年、ローマ帝国はキリスト教を公認するという勅令を発令しました。
キリスト教は、皇帝ネロの時代から激しい弾圧と迫害を受けていました。皇帝先制主義をとっていた時代に、皇帝以外の崇拝は認められなかったためです。
しかし、キリスト教へ深い信仰心を持つ皇帝が現れたことで、キリスト教は存続の危機を免れることになります。
そのきっかけを作ったのが、ローマ皇帝コンスタンティヌス帝です。
コンスタンティヌス帝が発令した勅令を「ミラノ勅令」と呼びます。
この勅令によって、キリスト教に対する弾圧は終わりを告げます。
そして325年、キリスト教のアタナシウス派を正統に認めることを決定したニケーア公会議が開かれることになるのです。
いかがだったでしょうか?
コンスタンティヌスがキリスト教を認めていなかったら、今、キリスト教はここまで広がっていなかったかも知れませんね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!